大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

広島高等裁判所松江支部 昭和41年(う)16号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を無期懲役に処する。

原審における未決勾留日数中六〇〇日を右本刑に算入する。

理由

弁護人松永和重、同野尻繁一の各控訴趣意は、記録編綴にかかる同弁護人等および被告人名義の各控訴趣意書(但し松永弁護人の控訴趣意中「第一点法令の適用の誤に関する主張(その一)」とあるのを「判決理由のくいちがい、訴訟手続の法令違反」と、「第二点法令の適用の誤に関する主張(その二)」とあるのを「訴訟手続の法令違反」と各訂正する)並びに弁護人野尻繁一名義の控訴趣意書中一部改正申立書記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。

これに対する当裁判所の判断は次のとおりである。

第一、詐欺未遂の公訴事実に関する控訴趣意

被告人および弁護人野尻繁一の各所論は、右公訴事実に関する原判決の認定は事実誤認であると主張するものであり、その理由として、被告人は神移春信および本藤末人に対し単に立木の相場を聞きに行っただけで、金銭を要求したことはない、というのである。

しかし、神移春信の検察官に対する昭和三七年一一月二八日付供述調書および本藤末人の検察官に対する同年同月二七日付供述調書によれば、被告人は同年八月三一日頃有限会社丸神商会において同会社代表取締役神移春信に対し「島の星の大きな木を買った、松と杉の六、七尺物だが、なんぼで買ってくれるか。」と申し向けたこと、同年九月五、六日頃再び同会社を訪れ右神移に対し、売主山田ハナ、買主被告人、松五本杉二本、代金七万円、内五万円は支払ずみ、残金二万円は伐採の際支払う旨記載してある立木売買契約書を示し「この間話した立木はこれだ。」と申し向け、神移において値段の計算をして見せたが両者の折合いがつかなかったこと、更に同月二三日頃三度び同会社を訪れ、神移に対し、「前日話した立木を今日切入りするので、二万円いるし、仕賃もいるので出して貰いたい。」と申し向けたこと、また同日頃本藤製材所において本藤末人に対し、前記立木売買契約書を示し、「松杉六、七本で三〇石位ある、石当り二、五〇〇円位で買ってもらいたい。」「残金二万円を持って行けばすぐ出せるので、残金を作ってくれ。」「遅くとも明後日迄に残金を持って行かねばならん。」と申し向けたこと、以上の事実を認めることができ、被告人が右神移、本藤に対し、いずれも単に立木の相場を聞いただけではなく、立木の売却を申込み、その代金名下又は山田ハナに支払うべき残金の融通名下に金員の交付を要求したことは明らかである。しかして被告人と山田ハナとの右立木売買契約が全く虚偽架空のものであり、被告人が当時立木を購入した事実がないことは被告人が原審公判廷において自白しているところであるから、原判決が認定した詐欺未遂の各事実は優にこれを肯認することができ、原判決には所論のごとき事実誤認の違法は存しないものというべきである。論旨は理由がない。

第二、殺人および死体遺棄の公訴事実に関する控訴趣意

先ず弁護人松永和重の所論中、被告人の司法警察員および検察官に対する各供述調書は、いずれも被告人が江津警察署において連日早朝から深夜に至る迄、時には翌朝午前四時頃迄連続して取調べられ、精神的にも肉体的にも疲労困憊の果て、精神もうろうの状態に陥った際作成されたもので、供述の任意性を欠くから、原審がこれを証拠に採用したことは訴訟手続の法令に違反したものである、との主張について判断する。

訴訟記録を精査し、原審第七回、第一〇回各公判調書中証人皆尾明雄の供述記載、同第二一回公判調書中証人勝部才一の供述記載並びに原審受命裁判官の証人竹崎玉夫、同川原大和、同皆尾明雄に対する各尋問調書を検討するに、被告人は後記のごとき事情のもとに昭和三七年一一月八日本件詐欺未遂の被疑事実で江津警察署に逮捕勾留され、同月二九日公訴を提起され、次いで同年一二月四日采信一の死体が発見されるに及び同月六日本件殺人・死体遺棄の被疑事実(但し当時の罪名は強盗殺人、死体遺棄)で逮捕勾留され、同月二八日公訴を提起されたもので、その間約五〇日にわたり勾留のまま捜査官の取調を受けたこと、右取調は詐欺未遂で逮捕された後間もない一一月一一日頃より既に采信一に対する殺人被疑事件として被告人と采信一との関係を問いただされたのを始めとして、それ以後殆ど連日のごとく采信一に対する殺人容疑の取調が続き、その間被告人は一貫して右容疑を否認したが、その供述内容が屡々変転するため、おのずから取調の態様が右供述の矛盾に対する追及の形をとるようになり、取調の時間も比較的長くかかり、捜査官としては取調時間を夜一〇時迄で打切ることを原則としながら、時には右時刻を超えて一一時頃迄かかったこともあり、被告人が数回にわたり身体の苦痛と不眠を訴えていたことが認められる。しかし他方右各証拠に被告人の司法警察員および検察官に対する各供述調書の内容自体をあわせ判断するに、捜査官等は被告人に対し自白を強要するようなことをせず、寧ろ殺人容疑の根拠となった事由について被告人に自由に弁解させ、これを調書に録取し、裏付捜査を行い、捜査の結果と被告人の供述の矛盾を問いただすという捜査方針を一貫して堅持し、被告人が身体の苦痛を訴えたときは取調を中止して医師の診断を受けさせ、或いは医薬を与え、被告人の健康には充分に注意を払っていたことが認められ、他に殊更被告人の睡眠を妨げる等その身体に苦痛を与えるような取扱いがなされた形跡並びにこれによる被告人の睡眠不足、疲労状態を利用し、殊更に被告人の供述の矛盾混乱を導き出そうと作為したことを窺うに足りる資料は全く存在しない。そして本件詐欺未遂の被疑事実に関する逮捕勾留についてこれが捜査権の濫用と断ずべき事情は何も認められず、被告人の殺人容疑に関する供述が後記のとおり多くの重要な事実に関し屡々変転していることおよび采信一の死体が発見される迄捜査当局としては殺人被疑事件につき充分な嫌疑を固めることが出来なかった事情をあわせ考えれば、被告人が詐欺未遂事件での逮捕勾留を含め、約五〇日間にわたり身柄を拘束されたまま取調を受けることとなったのもやむを得ないものというべきであり、これをもって直ちに違法不当な取調ということはできず、他に捜査官の被告人に対する取調につき違法不当な点があったことを窺い知るに足りる証拠は存在しない。されば、被告人の捜査官に対する各供述調書をもって、供述の任意性を欠く無効な調書であるとする論旨は理由がなく、採用できない。

次に被告人および弁護人松永和重、同野尻繁一の各所論中、原判決の前記公訴事実に関する認定は事実を誤認したものであり、或いは経験則に違反し、理由不備の違法があるとの主張について判断する。(以下江津市大字郷田星の島一〇四〇番地山陽パルプ江津工場苗甫内木屑捨場のことを単に山パル木屑捨場又は木屑捨場、右木屑捨場に昭和三七年当時存した三個の穴のうち采信一の死体の発掘された個所を中央の穴、采信一が借受けていた同市大字郷田に所在する浜吉松正所有の家屋を浜吉の家と各略称し、かつ単に月日をもって日時を示すときは昭和三七年のそれを指すものとする。)

被告人の所論を要約すれば、およそ次のとおりである。

(イ)  (犯行日時の点の誤認)

原判決は犯行の日時を一〇月八日夜と認定し、その根拠として同日被告人の家の近辺で采を目撃したという花田岩男夫婦、佐田尾要、塩田とわ子の各供述を挙げているが、右各供述は日時の点で誤りをおかし又は人違いをしている。若し右各供述が正しければ、野瀬丑栄、吉川豊二郎、津村藤子等も八日に采の姿を見ている筈であるのに、同人等は采の姿を見かけていないし、他に江津市内で采の姿を見たものはいない。また被告人が同日夜おそく帰宅したという野瀬丑栄、花田夫婦の各供述も日時の点で誤りをおかしている。被告人が同月一〇日采から葉書を受け取った事実からみても、采が八日に殺された筈はない。

(ロ)  (証拠物の誤認)

原審で押収したガンヅメは被告人の家の道具置場に置いてあったもので、木屑捨場に持って行ったことはなく、本件と無関係である。被告人が一〇月八日の朝木屑捨場に持って行ったガンヅメは本件のガンヅメとは別のもので、それは一時木屑捨場に置き忘れていたが、一一月二六日頃田中オキより受取り、その後王子建設の作業現場で使用していた。

同じく原審が押収したビニール被覆電線外皮も被告人の家で使用していたものとは別のもので、被告人の家で使用していた電線外皮はその後旧財務局建物内王子建設作業現場に持って行き、工具と共に同建物のなかに置いたままになっている。

(ハ)  (犯行現場の誤認)

山パル木屑捨場付近は夜間人の通行するところではなく、義足で夜間の外出を嫌っていた采がそのような場所へ行く筈がない。また死体の発掘された中央の穴の砂にも、同所から発見された眼鏡からも血痕が証明されなかったことからみて、右木屑捨場を犯行場所と認定することはできない。なお、死体発掘場所付近に大きな竹籠が落ちていたことおよび采の死体が藁ごもに包まれていたことは、犯行場所が木屑捨場以外であることを証明する。

(ニ)  (その他被告人の犯行とは認められない理由)

采信一はもと警察官で用心深く、腕力も強い大男であり、被告人のような小柄な男が一撃で殺せるものではない。

被告人と采との間に九月末頃金銭上気まずいこともあったが、それも双方納得の上解決しており、被告人も苦しい生活のなかから妻に采の食事の世話までさせてきた仲であって、同人を殺すような動機がない。

采の身辺には種々不審な点があり、江津へ来た目的もはっきりせず、また本件の関係者のうちには渡辺三次、笠原勇のごとく跛をひく男がいて事件の真相を知っていると思われるのに、警察も原審も被告人の言分を認めず、これらの点につき何等の捜査、審理をしていない。

被告人が木屑捨場で整地作業を行ったのは、采信一等から製炭窯の構築作業に雇われたためであり、また被告人が一〇月八日の朝木屑捨場で整地作業をしていたことは田中ツネコの供述するとおりで、被告人は未だ采が殺される前に死体の埋没されていた場所で作業をしていたことになるから、被告人が同所で整地作業をしていたことと采殺害の犯行とは結びつかない。

弁護人松永和重、同野尻繁一の各所論を要約すればおよそ次のとおりである。

原判決は、被告人が押収にかかるガンヅメをもって采信一を強打し、殺害した上、その死体を藁ごもで包み、脚部を押収にかかるビニール被覆電線外皮で結び、同所に埋没したと認定している。

しかし、被害者采信一の創傷の部位程度からみて右ガンヅメが凶器であれば、これに相当量の被害者の血液が附着していなければならないのに、羽場鑑定人の鑑定結果によれば、右ガンヅメの極少部分のみから極微量の人血らしきものが発見されたに過ぎず、それも相当古いものであり得るということであり、また三上鑑定人の鑑定結果からは、血液の附着が証明されていない。従って経験則上右ガンヅメをもって采殺害の凶器と認定することは許されないといわなければならない。またビニール被覆電線の外皮についても、坂本和男は山パル木屑捨場に同じようなものが沢山捨ててあるのを見たと供述しているのに、原判決がこれを無視し、被告人の家にあったものと似ているというだけで、他に何等の特徴も示さず、これを同一物と認定したことは違法である。その他当時被告人が着用していた衣類、携帯していた鞄等からも血液の痕跡は発見されていない。以上の諸点は、本件殺人死体遺棄の公訴事実を認定する上で致命的な欠陥というべきであり、原判決の認定は経験則に違反し、理由にくい違いがあり、事実を誤認したものといわなければならない。

そこで、訴訟記録並びに原審および当審で取調べた各証拠に基づき当裁判所が認定した事実の要点を述べるとともに、原判決の認定の当否を検討し、各所論に対する判断を示すこととする。

一、被告人と采信一との関係

(一) 被告人は島根県の出身で、小学校卒業後神戸の株式取引所や九州の炭鉱で働いていたが、昭和一五年頃から江津市に居住し、昭和二七年頃久栄こと野瀬丑栄と内縁の夫婦となり、炭焼きや土建人夫、人夫の世話役等をしていたもので、昭和三七年春頃からは殆ど仕事もなく、身体(胃腸)の工合も悪いので、主として内妻丑栄の収入で辛じて家計を支えてきたが同年七月、八月には一家心中をしようとの思いつめた話も出る程苦しい生活状況であり、なおその当時は肩書住居に丑栄の妹の子○○○○、同○○(いずれも中学生)も同居し四人で暮していたものである。

(以上の事実につき、≪証拠省略≫)

(二) 采信一は、広島県安佐郡可部町の出身で、戦前軍役に服して満洲国に渡り、除隊後引続き同国に留まり警察官となったが不幸にして、匪賊討伐の際左足を負傷して切断し、義足となり、警察官を退職し、同国で玉突きの経営や軍用犬の道具の商い、建設工事の下請け等に従事していたが、終戦後郷里の可部町に帰り、その頃約一年程北海道の開拓に赴いたほかは郷里で妻ヒデヨと共に農業に従事し、そのかたわら養鶏や外交販売等臨時の仕事に従事し、昭和三七年一月頃から広島市内の電気器具商大杉商会の臨時雇いの形で働いていたが、その頃江川でうなぎがよく取れるという話を伝え聞き、六月始め頃単身で江津市へ赴き、被告人の家に近い浜吉の家を借受け、その頃仁科藤登に川舟一隻を代金一六、〇〇〇円で注文し、広島から川舟用の発動機を取寄せ、渡辺釣具店で釣道具を購入し、江川で細々と川漁を始めた。

(以上の事実につき、≪証拠省略≫)

(三) 被告人は七月頃采信一と知合い、その頃同人が生活に窮し、食事も満足にとれない状態にあったので、内妻丑栄に食事を浜吉の家に運ばせて世話をするようになったが、そのうち同人と一緒に江川で蟹漁をしようとの話がまとまり、九月始め頃から飯田三郎を加え、三名で蟹漁を始めたところ、間もなく飯田が脱け、漁も不振のため、同月一八日頃には漁をやめざるを得なくなり、采は同月末頃江津市での生活が思わしくなく、浜吉の家の賃料を払ってゆく見込もないので、可部町へ帰ろうと決意し、荷物を全部まとめた上、一〇月二日浜吉の家の管理人武田スミノに対し「二、三日して広島へ帰るから、その間荷物をここに置かしてくれ」といって同家を立退き、その後数日の間浜吉の家から約八五米程離れた吉川氷店こと吉川豊二郎方の店を借り、夜だけ泊めて貰っているうち、同月九日頃から可部町の家族に何の知らせもせず、江津市の知人に挨拶もしないで姿を消し、行方不明となった。

(以上の事実につき、≪証拠省略≫)

二、被告人の逮捕と采信一の死体の発見

采信一が江津市で行方不明となってから間もなく、被告人が浜吉の家へ赴き、采のあと同家に入居した鍋島トヨノに対し、采からその荷物を広島へ送るよう頼まれていると称し、その引渡しを求め、鍋島からこれを拒否されるや、管理人の武田スミノのところへ行って再び采の荷物の引渡しを求め、同人がその処置に窮した結果、同人の娘婿笠原勇に話し、笠原が警察官の派出所へ行って采の荷物の処置について相談すると共に同人の所在について捜査を依頼し、その際被告人に不審な行動があって、世間では被告人が采を殺したのではないかという噂があることを警察官に告げたため、その報告を受けた江津署では采信一の所在捜査を開始すると共に被告人の行動についても捜査した結果、本件詐欺未遂の容疑が固まり、一一月八日右容疑で被告人を逮捕勾留し、同月二九日松江地方裁判所浜田支部に右容疑で公訴を提起し、その間詐欺未遂の捜査と併行し、被告人に対し采信一に対する殺人容疑での取調べを進めると共に、他方采の行方を江津市内は勿論、郷里等同人の立廻ると思われる個所について細大もらさず調査し、更に「尋ね人」として全国の都道府県警察に手配したが仲々行方が判らないうち、後記のごとき被告人の山パル木屑捨場での不審な行動が判明し、内妻野瀬丑栄の供述(被告人が深夜ズボンやズック靴に山パル木屑捨場の木屑と同じような悪臭をしみこませて帰宅した旨)並びに第三者より、警察は山パル木屑捨場の発掘を怠っている旨の通報があり、そこで江津署では最後的の意を決し一二月三日山パル木屑捨場の中央の穴をトラクター・ショベルをもって発掘したところ、翌四日午前一〇時四五分頃中央の穴の木屑を三米六〇糎余り掘り進み、更にその底の砂を約七四糎掘ったところに、藁ごもに包まれ、脚部をビニール被覆電線外皮でまかれ、俯伏せの状態で遺棄されていた采信一の死体を発見したので直ちにこれを鳥取大学医学部法医学教室岡田吉郎医師によって江津警察署に於て解剖に付したところ、その結果は後記のとおりであって、要するに采は、重量のある鈍器をもって顔面を突き或いは撲りつけられ、殺害されて同所に遺棄されたものであることが明らかとなり、同月六日被告人を強盗殺人、死体遺棄の容疑であらためて逮捕勾留し、同月二八日松江地方裁判所へ殺人、死体遺棄の公訴事実をもって起訴するに至ったものである。

(以上の事実につき、≪証拠省略≫)

三、ところで、前記のとおり采信一の死体発見によって同人がなにびとかのため殺害されたことは明らかとなったが、これと被告人との結びつきに関しては、捜査および公判を通じて被告人の自白がなく、また犯行の目撃者のごとく直接これを証明し得る証拠も存在しない。そこで先ず本項において、本件の全証拠のうち、被告人の供述以外の証拠と一部被告人の不利益事実の自認とによって、采殺害の事実と被告人の犯行とを結びつける上に重要な関係を有すると思われる事実を認定し、次項においてこれに対する被告人の弁解を検討し、最後に両者を総合して所論に対する当裁判所の判断を示すこととする。

(一) 立木購入代金として采が被告人に預けた三五、〇〇〇円について。

采信一は六月頃に江津へ来たのち、八月一一日広島県の宮島で満洲時代の仲間の会合があるというので郷里の可部町へ帰ったが、その際被告人から「ハナシススメルスグカエレ」との電報を受取り、妻ヒデヨに「後さんと一緒に山の取引をするので、手附金として五〇、〇〇〇円と魚釣道具の代金を支払うため九、〇〇〇円を持って行く。」と申し向け、かつ「稲刈りが始まる頃には帰ってくるから、それ迄遊ばせてくれ。」と言い置き、右五九、〇〇〇円と米一斗を持って同月一四日江津市へ戻り、その頃被告人に右金員のうち三五、〇〇〇円を立木購入代金として預けたが、被告人は結局右金員を立木の購入に使用しなかった。

(以上の事実につき、≪証拠省略≫)

ところで、采は九月末頃蟹漁をやめ、郷里へ帰ろうと決意したが、その頃から江津市周辺で被告人が買受けたと思われる山林を熱心に探し廻わり、やがて被告人が立木を購入していない事実が判明するや、被告人に騙されたとしてひどく立腹し、被告人に強く三五、〇〇〇円の返還を請求し、或いは江津市の知人に被告人の不法を訴え、場合によっては警察に告訴すべき態度すら示していた。即ち、采は花田節子に対して九月末頃「後さんが山を買うというので三五、〇〇〇円出したが、買うたものやら何やらさっぱりわからん、おそろしくなったので、出した金の半分でも貰って広島へ帰りたい。」と申し向け、福島トシ子に対し一〇月始め頃「後さんが山を買うたという話は嘘だったので、金を返してくれというがなかなかくれない。それを貰わねば帰ることも出来ない。」と申し向け、平川種一に対しその頃「山の話はもうどうでも良い、立替金を返してもらって広島へ帰る。」と申し向け、吉川豊二郎に対しその頃「山を共同で買うというので出した三五、〇〇〇円を返して貰おうと思うがなかなからちがあかなくて困っている。」と申し向け、塩田とわ子に対し同月五日頃「早よういなねばいけんが、後に貸した三五、〇〇〇円を返して貰わねばいなれん。」「今迄腹が立ったことはないが、今度は腹が立った。」と申し向け、津村藤子に対しその頃「警察へ届けたいが、警察に届けると一文にもならん。」と申し向け、武田スミノに対し同月六日頃「山の話は嘘だった、いずれこれ(両手首を交差して見せる)にせにぁやれまい。」と申し向け、また被告人の内妻野瀬丑栄に対しても同月始め頃「あなたも知っているだろう、隠しても駄目だ、隠せば同罪だから一緒に警察へ行こう。」等と申し向けていた。

(以上の事実につき、≪証拠省略≫)

(二) 被告人の一〇月七日以降における山パル木屑捨場での行動

被告人は一〇月七日以降山パル木屑捨場において屡々多数の者によって目撃されている。その状況はおよそ次のとおりである。

一〇月七日(江津中学校で運動会のあった日曜日)の午前一〇時頃および午後一時ないし三時頃の間に木屑捨場に木屑を拾いに来た多数の者が被告人を目撃しており、当時被告人は一人であって木屑拾いの人達に対し「今日は午後から山パルの偉いさんが調査にくるので拾われん。」「明日は何ぼ拾うても良い。」「あれ程いうたのにわからんか、早く帰りなさい。」等と申し向けて同人等を追い払うようにしていた。同日午後五時から六時頃にも同じく木屑を拾いに来た者数人によって目撃されているが、そのとき被告人は別の男と一緒で、その男は顔、形が采とそっくりであったことが右目撃者によって確認されている。

同月八日早朝木屑捨場の中央の穴付近で被告人が木屑をかきならす作業をしているところを木屑を拾いに来た数人の者によって目撃され、同日午後五時頃野村静枝により被告人が采と思われる丸顔で眼鏡をかけ片方義足の男と一緒にいるところを目撃されている。

同月九日午前中被告人は木屑捨場中央の穴の両側にある穴に繩を張りめぐらし、これに中止と書いた紙を垂れ下げ、木屑を捨てに来た貨物自動車の運転手を誘導して専ら中央の穴に木屑を捨てるよう指示し、又木屑を拾いに来た人達に対し、木屑捨ての自動車が来たときは、中央の穴に捨てるよう運転手に云ってくれと頼んでいる。

同月一〇日以降も被告人は再々木屑捨場にあらわれ、中央の穴へ木屑をかきおろす作業をしているところを目撃され、或いは木屑を拾いに来た者に、木屑を中央の穴へ捨てさせるように依頼している。

なお、田中オキは、一〇月末から一一月始め頃木屑捨場へ木屑を拾いに来たとき、被告人から「ガンヅメを知らんか」といわれ、たまたま同人が他人の置き忘れたものと思い、付近に隠しておいたガンヅメを取り出して見せたところ、被告人は「これだこれだ」といって持ち帰ったが、そのガンヅメは柄の曲った使いにくいもので、本件のガンヅメと同じものと思われる、と供述している。

(以上の事実につき、≪証拠省略≫なお、八日の夕方被告人が采らしい男と二人でいるところを目撃した旨の野村静枝の供述については、七日の夕方〔この日の目撃者の数は多い〕の誤りではないかとの一応の疑いもないではないが、同人は七日の日曜日には娘のほづみと一緒に木屑を拾いに行き、八日は娘が勤めに出ているので一人で拾いに行ったが、その眼がねをかけた人と会ったのは娘と一緒に行ったときでないことは明らかで男に会ったのはほづみを連れて行ったよりあとであったと思うと供述していること並びに被告人の、一〇月八日午後五時頃木屑捨場へ行った旨の自白〔一二月一三日付および同月二一日付司法警察員に対する各供述調書〕とあわせ判断すれば、野村静枝の右供述は十分信用できるものと考える。)

(三) 一〇月八日前後における被告人および采の行動に関する野瀬丑栄、佐田尾要、花田岩男夫婦等の各供述

先ず野瀬丑栄の供述によれば、同人は当時吉川氷店に勤め、午前七時から正午迄と午後三時から五時迄働いていたが、一〇月七日の日曜日には江津中学の運動会があり、被告人の家でも○○○○、○○の兄妹が参加するので、丑栄は勤めを休み、朝九時頃から同中学の運動場へ行った、その日被告人は朝八時頃丑栄に「人夫達を山パルへ行かさないといけんので、清風荘へ行ってくる。」と申し向け、采の自転車に乗って出かけたが、昼前頃江津中学へ来て丑栄等と一緒に食事をし、午後の競技が始まって間もなく、「采が来ているから、弁当を持って行ってやる。」といい、丑栄に弁当の残りを重箱に詰めさせ、それを持って姿を消し、その後一旦運動場に戻ってきたが暫くして再び姿が見えなくなり、丑栄が午後四時頃帰宅した後、被告人も午後五時頃帰宅した(ちなみに、原審の昭和三八年三月九日付検証調書によれば、江津中学運動場と山パル木屑捨場は、間に幼花園をはさんで相対し、運動場入口から木屑捨場迄せいぜい二〇〇米位と推認される。)、翌八日は丑栄が出勤する迄被告人は寝ていたが、午前一〇時頃吉川氷店に来て丑栄に「都野津の吉村が来て起こされた。」といい、丑栄が正午過ぎ自宅に帰ったとき吉村はおらず、佐田尾がいて丑栄に「早く帰れば一杯飲めたのに。」と冗談をいった、午後五時過ぎ丑栄が勤めを終えて帰宅したとき、被告人は「山パルの仕事があるから早く食事にせよ。」といい、食事後作業衣に着換え、弁当を持って出て行き、翌九日午前一時半頃帰ってきたが、そのとき被告人のズボンの膝から下、ズック靴、シャツの袖口に黒いドベ(汚水によって腐った泥)がついて汚れており、鼻をつくような悪臭がしたので、丑栄は湯を沸かし、盥にいれて被告人の手足や汚れ物を洗った、被告人は「命がけの仕事だった、死ぬような仕事で、こんな仕事なら行くのではなかった、続きの仕事があるから明日の朝五時に起こせ。」といってすぐ寝てしまったが、その夜は被告人は床の中でとても苦しそうにうなされていた。馬乗りになって上から押えつけられたような気分の声であった。丑栄が翌朝五時に起こすと被告人はぬれたままの前夜の作業衣をそのまま着て出て行き、丑栄が正午頃吉川氷店から帰ってくると間もなく被告人も帰宅し、「今度のようなしわい仕事は始めてだ、今度佐田尾が来たら、あんな仕事なら二度ともってくるなと文句をいってやらないといけん。」といい、丑栄に二日分の日当として二、〇〇〇円を渡し、「誰が来ても起こすな。」といってすぐ寝てしまったが、同日午後五時頃丑栄が帰宅したとき、被告人は家の前で花の手入れをしながら「子供がやかましいし、神経が高ぶって寝られん。」といっていたことが認められる。(野瀬久栄=(丑栄のこと)=の検察官に対する供述調書三通、同人に対する原審の証人尋問調書、なお同人は右の原審の証人尋問の際に、被告人が夜作業に出かけ、午前一時半頃帰って来たのは七日の夜から八日にかけての出来事と供述しているが、後こと坂本政子、坂本和男の検察官に対する各供述調書、原審の証人坂本政子、同坂本和男に対する各尋問調書、同花田節子、同花田岩男に対する各尋問調書二通宛並びに被告人の司法警察員に対する一二月一一日付供述調書と照らしあわせ、仔細に検討すれば、野瀬丑栄の検察官に対する供述調書記載のごとく、八日の夜から九日にかけての出来事と認定するのが正しいと考える。)

次に佐田尾要の供述によれば、同人は工事の下請けを業としているもので、昭和三六年八月頃から昭和三七年四月頃迄被告人を人夫世話役として働かせていたが、一〇月七日から九日迄の山パル定期修理日(電休日)に王子建設が山パルの排水溝の修理を請負い、そのため人夫集めを佐田尾に依頼し、佐田尾が更にその話を被告人にしていたので、同月八日朝も被告人に人夫を集めて貰おうと思い、午前一〇時頃被告人の家に赴いたところ、吉村義正が先に来ていて大阪方面の景気のいい話をしており、丁度映画見物から帰って来た○○○○にビールを買いにやらせ、三人で飲み始めたところへ采が入口の土間に入ってきて挨拶をし、被告人が坐ったまま「上りんさい。」と声をかけたが、采は座敷に上らずそのまま帰り、間もなく吉村も帰り、その後丑栄が帰宅したので、佐田尾は人夫の話を被告人にしないで辞去したとの事実を認めることができる。(≪証拠省略≫)

次に花田節子、同花田岩男の各供述によれば、同人等は被告人の家と狭い通路を隔てた家に居住している夫婦で、岩男は漁業に従事しているものであるが、節子は一〇月八日の午前中に二回(八時頃と九時頃)、岩男は午前一一時頃にいずれも采が花田の家の前を通って被告人の家へ入って行くのを見かけ、また右両名は同日午後四時頃揃って風呂へ行く際、被告人の家のなかで被告人と采が大声で口論しているのを聞き、また翌九日午前二時頃花田の家の前を通り、被告人の家へ入ってゆく足音と被告人の家の戸を開閉する音を聞いたことが認められる。(≪証拠省略≫)

次に塩田とわ子の供述によれば、同人は一〇月八日被告人の家の付近で薪運びをしていたが、午前八時頃から一〇時頃迄の間に被告人の家の庭先で一回、浜吉の家の戸口付近で二回采に出会い、「話があるから一服せい。」といって話かけられたことが認められる。(≪証拠省略≫)

(四) 一〇月九日以後における被告人の不審な行動

(イ) 被告人は一〇月九日平川種一に対し、采の所有物である川舟一隻を代金九、〇〇〇円で売却し、翌一〇日右代金を被告人の家で受領した。(≪証拠省略≫)

(ロ) 被告人は一〇月一〇日頃浜吉の家へ赴き、采のあと同家に入居した鍋島トヨノに対し、「采から荷物を送ってくれと頼まれたから、荷物を渡して貰いたい。」と申し向けたが同人より「あなたに直接渡すわけにいかないから、管理人の方へ行って話してくれ。」といって拒否されたので、その頃武田スミノ方に赴き、浜吉の家の管理人である同人に同様のことを申し向けて采の荷物の引渡しを要求したが、同人から「今若い者がいないので渡されん、若い者が帰ってから来てごせ。」といわれて拒否され、再度武田方に赴いた際、武田スミノの娘婿笠原勇に対し「采から葉書がきて、荷物を送ってくれといってきている。」と申し向けたが、肝腎の葉書を所持していなかったため荷物を受けとることができず、その頃笠原が警察官派出所へ行って采の荷物の処理について相談したところ、警察官より被告人の引渡要求に応じないよう注意された。なお、被告人はその頃吉川豊二郎に対しても「采から葉書がきて、荷物を送ってくれといってきている。」と話し、葉書を手に持ったまま吉川に示したが、同人に手渡していないので、同人は葉書の内容を見ていないことは勿論、采の発信した葉書ということも判然とは確認していない。(≪証拠省略≫)

(ハ) 被告人は一〇月一〇日頃樋高こと竹田柳一方に赴き、同人に対し、金銭を借りていないのに、二五、〇〇〇円を借りたことにし、誰から聞かれてもそのように云ってくれと頼み、被告人名義の一〇月七日付金二五、〇〇〇円の借用書を同人に差入れ、またその頃佐田尾要に対しても、金銭を借りた事実がないのに、被告人が一〇月七日同人から二万円を借り、その後返したことにしておいてくれと頼んだ。(≪証拠省略≫)

(ニ) 被告人は一〇月一二日頃日通石見江津支店に赴き、采が広島宛に出した川舟用の発動機が既に発送されたかどうかを確め、その際日通の従業員から料金を支払って貰えるかどうかを尋ねられ、着払いにするようにと答えている。(≪証拠省略≫)

(ホ) その他被告人は、采が江津市内で所在不明になった頃武田スミノ、吉川豊次郎、平川種一に対し采の行方について、采は金田の飯田のところに稲かりの手伝いに行っているとか、采はいとまごいをして行ったとか、黒松の方にわかめの養殖の話に行っている等、種々の想像的話を真実らしく言っている。(≪証拠省略≫)

(五) 采信一の死体解剖の結果

采の死体は一二月四日鳥取大学医学部法医学教室岡田吉郎医師に死因の鑑定が委嘱され、解剖に付されたが、同医師の鑑定結果によれば、死体は死後約一ヶ月ないし三ヶ月経過し、大部分屍蝋化し、顔面の一部および左右上肢において骨が露出し、顔面の右眼窩上縁に接し径約二・二糎の類円形陥没と右頬骨体眼窩右端の線でほぼ上下にやや鋭い陥没があり、顔面の軟部組織を剥離すると、(イ)前頭骨右眼窩部で眼窩上縁の内端から上やや内方に長さ約二糎、そこから右下方に約三糎のゆるやかなカーブを描いて右眼窩上縁外端に至る骨折があり、それに囲まれた骨片を後方に陥没させ、眼窩の天井をこわし、(ロ)右頬骨の前下端と上顎骨の接合する所から上やや内方に鈍的なほぼ直線状の骨折があり、それより右方の頬骨体はほぼ中央の高さで左右方向に折れ、側頭骨と接する付近で上下方向に骨折し、更に側頭骨の頬骨突起の中程でも上下に骨折し、それらの内側の蝶形骨大翼に穿孔を作り、前頭骨の頬骨突起も骨折している、(ハ)左上顎骨の鼻切痕の下端から約一・五糎上方より起った骨折は左眼窩下縁から眼窩の下面を通って左側頭骨の錐体の尖端近くに及んでいる、以上の各骨折からそれぞれ亀裂が走り、頭頂骨、側頭骨、後頭骨に波及している、以上の顔面頭部の傷害のうち右眼窩部および右頬部の骨折はいずれも直接頭蓋腔内に達する甚だ重篤な創で、采信一は頭蓋骨陥没骨折による脳挫創のため受傷後間もなく死亡したものと認められ、なお凶器は巾二・四糎、長さ五糎以上の面をもつかなり重量のある鈍器であり、本件の証拠物として押収してあるガンヅメを用いたとすれば、被害者が立っているところを強い力で突いたか撲りつけ又は仰臥していたとすれば頭の上から振り降したと考えれば可能であり、打撃は一回ではなく二回又は三回と思われ、亀裂骨折の状況からみて右頬部の受傷が先であり、右眼部の受傷が後と推定される。(鑑定人岡田吉郎作成の鑑定書二通)

(六) 証拠物

(イ) ガンヅメ

右ガンヅメは、一二月七日被告人方居宅外側のトタン板で囲った道具類置場から鉄棒、木材皮はぎ道具等と一緒に押収されたもので、重さ約一・五瓩、長さ約八三糎で先端の金属部分が四本の爪にわかれ、柄が左に曲っている(司法警察員作成の一二月七日付捜索差押調書)。右押収物件数点につき島根県警刑事部鑑識課において直ちに血痕の有無の捜査がなされたところ、いずれもルミノール試験、ロイコマラカイト緑試験に対し陽性の反応を呈したが、微量のため人血の証明が得られず(鑑定人吉良清司作成の一二月一八日付鑑定等)、次いで右ガンヅメにつき昭和三八年一月一八日岡山大学医学部法医学教室羽場喬一医師の鑑定に付され、同鑑定人は警察官にせかされたため同日午後一時から八時迄の短時間に検査することを余儀なくされたが、検査の結果は予備試験としてのペンチヂン試験、マラカイト緑試験に対して陽性の反応を示したものの、本試験としての高山氏ヘモグロモーゲン結晶試験、ヘマトボルフィリン螢光試験に対しては全然反応を示さず、またガンヅメの金属部分一ヶ所、止め金の部分一ヶ所、木柄の部分二ヶ所につきフィブリン平板法による検査をしたところ、木柄のうち金属部分と接合する一ヶ所につき陽性の反応を示し、他の個所はいずれも陰性であって、同鑑定人は結論として、右木柄と金属部分との接合個所に人血痕が附着すると思考されるが、短時間の検査のため精密検査としては不完全である旨鑑定し(鑑定人羽場喬一作成の昭和三八年二月二五日付鑑定書、原審の証人羽場喬一に対する尋問調書)、次いで同鑑定人は島根県警刑事部鑑識課より更に右ガンヅメにつき血痕附着の有無の鑑定を重ねて委嘱され、同年三月一一日より同月一六日迄の間ガンヅメの木柄から三ヶ所、金属部分から六ヶ所採取した資料にもとづきフィブリン平板法による検査をしたところ、結果はいずれも陰性で血痕附着の証明が得られず(鑑定人羽場喬一作成の昭和三八年四月一六日付鑑定書)、また原審において岡山大学医学部法医学教室三上芳雄教授に同趣旨の鑑定を命じたところ、同鑑定人は昭和三九年四月二日から同年八月一三日迄の間にガンヅメの金属部分四〇ヶ所、木柄一三三ヶ所につきルミノール試験、ベンチヂン試験、ロイコマラカイト緑試験を、右検査部分のうち金属部分一〇ヶ所、木柄部分三〇ヶ所につきフィブリン平板法試験、人血清沈降反応試験を行ったところ、結果はすべて陰性で、血痕附着の証明を得られなかった。(鑑定人三上芳雄作成の鑑定書、当審の証人三上芳雄に対する尋問調書二通)

なお、采信一の創傷と出血の有無につき、同人の屍体を解剖した岡田吉郎は、死体が古いので出血の有無は判然としないが、眼瞼は切れていないと思われ、眼球が破裂したか否かは検査できない状況であった、出血したとしてもとび散るということではなく、口のなかへ出血し、それが口外へこぼれる状況と思われる旨供述し(当審第三回公判調書中証人岡田吉郎の供述記載)、前記岡山大学教授三上芳雄は、頭部顔面のように皮膚の下に筋肉がなく直ぐ骨となっているところでは、外部から骨折を伴う程度の打撃を受ければ、皮膚が裂けないということは考えられない、采信一の顔面の骨折状況からみても皮膚は裂け、眼球は潰れ、相当の出血があったものと思われる旨供述し(当審の証人三上芳雄に対する尋問調書二通)また熊本大学教授神田瑞穂は、采信一の顔面の骨折につき当然挫裂創を伴い凶器に血痕が附着したと思われるが、顔面の血管は小さいので返り血を浴びるという程の出血ではなく、むしろじわじわと出る状況と思われる旨供述している(当審の証人神田瑞穂に対する尋問調書)。

(ロ) ビニール被覆電線外皮

右ビニール被覆電線外皮は、采信一の死体が山パル木屑捨場中央の穴より藁ごもに包まれて発見された際その脚部に藁ごもの上から巻きつけられていたものであり、長さ約一米七〇糎、縦にするどい剃刀様の刃物で切られ、なかの電線を抜きとられている(司法警察員作成の検証調書)。ところで、被告人の家では内妻丑栄の妹坂本房子が山パル裏手の海岸で同様のビニール被覆電線外皮(但し長さは三米位)を拾い右房子が大阪に引揚げるとき被告人方に置いてくれたので爾後同人方で物干綱の代りに使用していたが、九月頃被告人と采が川魚を始めた際、これを采の自転車の荷台に取付けていたところ、右自転車を被告人方の○○○○、○○○○の兄妹が新聞配達のため借受け使用中、前記江津中学の運動会の頃から見えなくなったもので、野瀬丑栄、坂本房子、坂本和男、坂本政子は本件押収にかかるビニール被覆電線外皮は、太さ、色合、縦に裂いた切口から見て、采の自転車についていたものと同一物と思う旨供述している(原審の証人野瀬丑栄、同坂本政子、同坂本和男に対する各尋問調書、坂本房子の司法警察員に対する供述調書)。

(ハ) 紙紐

右紙紐は、采信一の死体の左足(義足)靴先に引っかかっていたもので、長さ一米四五糎の荷造用の紐である(前記検証調書)。ところで、野瀬丑栄および坂本和男は、このような紙紐で被告人の家の豆炭を入れた袋をくくってあるのを見たことがあると供述し(野瀬丑栄、坂本和男の司法警察員に対する各供述調書)、坂本政子は、采の自転車の荷台についてあったのを見覚えていると供述し(原審受託裁判官の証人坂本政子に対する尋問調書)、また高原勝子は、被告人に薪炭を売ったときの紙紐と同質で、色、大きさも同じである旨供述している。(高原勝子の司法警察員に対する供述調書)

四、前項で検討した事実のうちには、采信一の殺害と被告人とを結びつける上に有力ないくつかの情況証拠が含まれている。そこで以下これらの点に関する被告人の捜査及び公判における供述、弁解を検討する。(以下被告人の司法警察員に対する供述調書を員調書、検察官に対する供述調書を検調書と略称し、被告人が木屑捨場で出会ったキジマという男につき木島という当字を用いる。)

(一) 被告人が采から預った三五、〇〇〇円の使途とその返還並びに采所有の川舟の売却について

被告人は一一月一一日付員調書において、采が八月一四日広島から帰って来た際、山でも買って二人でやろうではないかといって三五、〇〇〇円を提供したので、そのうちから采の借金になっていた釣道具代八、〇〇〇円と家賃三、〇〇〇円を支払わせ、蟹網の材料等に五、〇〇〇円使い、九月始め頃被告人の借金の返済のため江津機工に一〇、〇〇〇円、嘉久志の竹田(武田の誤記と思われる)に五、〇〇〇円、澄田に三、〇〇〇円使わせて貰った。その返済は一〇月七日樋高(竹田)柳一から二五、〇〇〇円を借り、そのうちから二〇、〇〇〇円を采に返済し、なお采から同人所有の川舟を一〇、〇〇〇円で処分するよう頼まれていたので、その頃佐田尾から一〇、〇〇〇円借りて采に渡し、その舟は平川に九、〇〇〇円で売却した、と供述したが、同月一四日付員調書において、樋高、佐田尾から金銭を借りたと云ったのは嘘であって、采から預った三五、〇〇〇円のうち一〇、〇〇〇円は采の借金の支払いにあて、五、〇〇〇円は蟹漁に使い、残二〇、〇〇〇円については、当時采に、被告人の江津機工、武田商店に対する借金の支払いに使わせてくれと頼み、采の承諾を得たが、右借金は既に支払ってあったので(ちなみに武田静剛の員調書二通、西谷彰の員調書によれば、被告人は武田商店に一〇、〇〇〇円、江津機工に一〇、〇一五円をいずれも八月一四日に支払っていることが認められる)、右二〇、〇〇〇円のうち三、〇〇〇円位を使いこんだだけで保管していたところ、九月二五、六日頃采が広島へ帰るから預けた金を返してくれといい出し、一〇月六日被告人の家で清算し、二〇、〇〇〇円を采に返すことで話がつき、七日の朝預り金の残りに大阪から内妻の妹が送ってきた金をあわせ二〇、〇〇〇円にして采に返済し、川舟については、采から処分を頼まれ、その代金は采がいずれ江津へ戻って事業をするのでその資金に繰込めば良いといっていたと供述し、同月一五日付員調書において、采から預った金のうち一七、〇〇〇円程残っていたというのは嘘で、八月一四日頃江津機工、武田商店に対する債務の支払いに流用し、采に返した金は九月以後の収入と大阪の妹が送ってきた金をあわせて二〇、〇〇〇円作ったと供述し、同月一七日付員調書において、采に対する返済は被告人が采から貰うべき蟹代やガソリン代の立替分と相殺し、一〇月七日の朝被告人方で采に一七、五〇〇円渡し、勘定をすませ、川舟の代金一〇、〇〇〇円については食事代六、〇〇〇円と差引き、あと四、〇〇〇円払えばよいことになっていると供述し、同月二〇日付員調書において、八月一四日采から二五、〇〇〇円預かり、当時大井産業および佐田尾から一四、〇〇〇円位の収入があったので、合計三九、〇〇〇円程手持ちの金があったが、そのうち江津機工と武田建材店に合計二〇、〇〇〇円払い、蟹漁の網代に二、五〇〇円、小遣いに五、〇〇〇円位、生活費に二、五〇〇円位を使い、一〇月六日の晩吉川氷店で采と話合った結果、七日の朝采から預っていた金の残り一〇、〇〇〇円に妻の妹が送ってきた金五、〇〇〇円、手持金二、五〇〇円をあわせ、一七、五〇〇円を采に返したと供述し、同月二五日付員調書において、一〇月六日夜吉川氷店で采が「広島へ帰るから舟を一〇、〇〇〇円で売ってくれ、代金のうち六、〇〇〇円は食事代と差引き、四、〇〇〇円は広島へ送ってくれても良いし、二、三週間すればまた江津へくるかもしれないからそのときでも良い。」と云い、山を買う約束で預った二〇、〇〇〇円余の金銭の返還については、蟹漁の勘定や網代の清算をした結果、くわしい内訳は忘れたが、采に一七、五〇〇円を支払うことに話がまとまったと供述し、同月二九日付検調書において、八月一四日采が広島から帰り、三五、〇〇〇円を出し「広島の材木屋が木材を欲しいというので金を半分宛出し合って山林を買おう。」というので、そのうち采の借金の釣道具代八、〇〇〇円、家賃三、〇〇〇円、電気代等を支払わせ、二五、〇〇〇円を受取り、そのうち一〇、〇〇〇円を被告人の借金払いに使い込み、その後山林を買ってないが采に対しては全部委せてくれれば二五、〇〇〇円に一〇、〇〇〇円をつけ加え、三五、〇〇〇円にして返すと約束したところ、九月末頃になって蟹漁が芳しくなくなり、采はまた山を思い出し探し始めたので、何とか金を工面して山を買っておこうと思ったが金が出来ず、一〇月三日頃采に山は買ってないといって謝り、采が「広島へ帰るので金を返して貰わないと困る、せめて元金の二五、〇〇〇円だけでも何とかしてくれ。」というので同月七日朝采から預った二五、〇〇〇円のうち残っていた一〇、〇〇〇円と妻の妹から送ってきた五、〇〇〇円、手持金二、五〇〇円をあわせ一七、五〇〇円にして返し、残りの金は蟹漁の清算などで話をつけたと供述し、一二月二五日付検調書において、采が提供した三五、〇〇〇円のうち、一〇、〇〇〇円は采の借金の支払いに、一〇、〇〇〇円は被告人の武田建材店に対する支払いにあて、残一五、〇〇〇円を仏壇の抽出等に入れて保管しておいたが、一〇月三日頃采が丑栄のところへ文句を云いに来たので、その頃山林を買ったといったのは嘘で預った金は使ったが迷惑はかけないと打明けたところ、采は「一〇月七日迄にまとまった金が欲しい、舟も売ってくれ、広島へ帰っても二、三週間すればまた来る。」と云った、同月六日夜吉川氷店で采と清算し、蟹漁の材料費、ガソリン代や旅費の立替、蟹の売却代金の分配、二月分の食事代等を計算した結果、采が被告人に支払うべき金約一一、〇〇〇円、被告人が采に返すべき金約二三、〇〇〇円となり、采の川舟を一〇、〇〇〇円に評価して被告人に渡すこととし、翌七日の朝被告人が保管していた一〇、〇〇〇円に手持金を加え、一七、五〇〇円にして采に渡し、なお采に支払うべき残金は四、〇〇〇円となったと供述し、原審第一二回公判において、采から預った二五、〇〇〇円のうち五、〇〇〇円は網代等に、一〇、〇〇〇円は江津機工に対する借用の払支いに使い、残り一〇、〇〇〇円を金庫に入れて保管し、一〇月七日の朝采に一七、〇〇〇円返し、あと四、〇〇〇円返せば良いことになっていると供述し、同第一三回公判において右と同趣旨のほか川舟を一〇、〇〇〇円に評価し、食事代を差引き、結局四、〇〇〇円を采に渡せば良いことになったと供述し、当審第七回公判において、采から預った二五、〇〇〇円のうち五、〇〇〇円を蟹漁の資金に使い、一〇、〇〇〇円を流用し、一〇、〇〇〇円は手提金庫に入れて保管していたので、一〇月六日夜吉川氷店で清算し、食事代一日一二〇円の割合で六〇日余り分を差引き、川舟を一〇、〇〇〇円で譲受け、他にこまかい差引計算をした結果采に一七、五〇〇円渡し、なお支払分が四、〇〇〇円残ることとなったと供述している。

(二) 一〇月七日以降の被告人の行動(特に山パル木屑捨場での)に関する供述

右の点に関する被告人の一一月一一日から一二月三日迄の各員調書の内容を要約すると、こまかい点の喰違いを省略し、おおよそ次のとおりとなる。即ち被告人は一〇月始め頃佐田尾要から山パルの定期修理日に人夫を入れてくれと頼まれていたので、同月七日朝佐田尾の家と王子建設事務所に行き、思うように人夫が集まらないことを話し、午前一〇時頃自宅に帰り、采に借金の返済をしてから同人と江津中学へ運動会の見物に行き、昼食を一緒にたべ、午後三時頃采と別れて帰宅した、同日の夕方と夕食後はパチンコ店で遊んだ、八日の朝は内妻に山パルへ行くと云って出かけたが山パルには行かず、女子高へ行って前に工事をしたときのバラスが残っていたのでこれを整理し、昼前に帰宅すると吉村と佐田尾が来ており、一緒にビールを飲んだ、そのとき采が訪ねて来たように思う、吉村から二、〇〇〇円受けとり、そのうち一、〇〇〇円を吉村の金といわないで妻に渡した、同日の夜もパチンコ店で遊んだ、九日の朝は嘉久志の大田という人のところへ人夫を頼みに行き、その途中(又は嘉久志からの帰途)江津駅で采と出会ったところ、采は浜田へ行くと云っていた、采の姿を見たのはそれが最後である、以上の様に供述し、特に一一月一三日付員調書において一月から一〇月迄の被告人の仕事の内容を詳細に供述しているが一〇月七日、八日前後に山パル木屑捨場で仕事をしたことには全然触れず、一一月一八日付員調書および一二月三日付員調書においては、一〇月六日から八日迄の間、又は同月八日、九日頃に山パル木屑捨場へ行って作業をしたことはないと断言していた。しかるに一二月四日員調書(采の屍体が山パル木屑捨場より発見されたのは同日であって、被告人はその日このことを知らされている。)において、山パル木屑捨場へ行っていないと云ったのは、人に迷惑がかかると思い嘘を云ったのだと前置きし、一〇月六日夜吉川氷店で采と金の勘定をした際、采が明日鳥取から人が来て木皮を焼いて炭になるか灰になるか試験をすることになっているという話が出、七日采と運動会に行った際同人に誘われて木屑捨場へ行ってみると鳥取の男二人、浜田の男一人、山パル会社の男一人が居て、鳥取の人が木屑を焼いて試験をするといい、山パル会社の人が火をたかれては困るといっていた、采は鳥取の人に「窯をつくる仕事はこの人(被告人のこと)にやらせてくれ。」と話していた、その日木屑捨場にいたのは午後一時から三〇分位のことである、八日は木屑捨場に行かず、九日は朝から木屑捨場へ行き、そのときは様子を見ただけですぐに帰り、それから嘉久志の大田の家へ行って人夫を頼み、その帰り途江津駅で采と出会い、一〇日朝木屑捨場に行き、窯をつくるという付近を片付けたり、ダンプカーの運転手に窯をつくる場所の反対側に木屑を捨てるよう指示したりしていたが、鳥取の人は結局来なかった、昼過ぎにも行ってみたが鳥取の人は来ず、山パルの人が来てその指示で窯をつくる場所に繩を張って木屑を捨てられないようにしたと供述し、同月六日付員調書においては、一〇月七日の行動に関してほぼ前と同様の供述をした後、同月九日に関して、同日午後六時頃吉川氷店の前で鳥取の労働者風の男と出会い、同人が「今夜でも窯場の仕事をやろう。」というので夕飯をたべてから、作業衣に着換え自転車で木屑捨場に行き、鳥取の労働者風の男が準備したガンヅメとスコップを使い作業をし、家に帰ったのは午後一〇時頃であったと供述し、同月七日付員調書では一〇月一〇日以後鳥取の男が姿を見せなくなったので、その男が采を殺したものと思うと供述し、同月八日付員調書では一〇月七日山パル木屑捨場で出会った人については誰も名前を聞いていないと供述していたが、同月一一日付員調書において、一〇月八日のことは白紙にもどして私の云い分を聞いて貰いたいと前置きし、一〇月八日被告人の家で佐田尾等とビールを飲んでいるとき訪ねて来たのは采ではなく鳥取の木島という親方風の男で、そのときは格別話もせずすぐに帰り、同日午後四時頃木島が再びやってきて、山パルの許可も正式におりたのですぐ現場に行ってくれ、というので、(そのとき始めて木島という名前を聞いた)、夕飯をたべ、作業衣に着換え、自転車で木屑捨場に行った、間もなく木島と鳥取の労働者風の男がやってきて、木島から二、〇〇〇円貰い、労働者風の男と木屑をかきおろす作業をし、疲れたのでガンヅメとスコップを藪のなかに放りこんで帰った、家に着いたのは一〇時頃で内妻を起こして湯を沸かさせ、手足を洗い、汚れたズボンとズック靴を洗っておくように云いつけた、九日の朝木屑捨場に行ったところ木島も労働者風の男も来なかったが、一人で一〇時頃迄木屑をかきおろす作業をしたと供述し、同月一三日付員調書において、采とは一〇月七日午後三時頃江津中学の校庭で別れて以来会ったことがなく、九日の朝江津駅で会ったのは嘘であると供述し、同月一九日付員調書において、一〇月八日午後六時半頃木屑捨場において采と二人で世間話や炭の話、窯の話等をしたと供述した後同調書の末尾で采といったのは鳥取の木島である旨訂正し、同月二一日付員調書において一〇月七日夕方江津中学で采と別れる際同人は「話は明日つくらしいから明日の朝からでも穴を埋めておいてくれ、都合によったら車が広島へ出るので、帰るかも知れんが、二、三日したらくる。」といっていた、自宅へ帰ったのは午後七時頃であった、八日の朝七時半頃木屑捨場へ行き、ハグチを使って作業をした、午後四時頃木島が来て「山パルの方も話がきまったから、これから現場へ行ってくれ。」というので、四時半頃現場の様子を見に行き、一旦自宅へ戻って夕飯をすませ、作業衣に着換えて再び木屑捨場へ行った、そのときは鳥取の若い運転手風の男と午後九時過ぎ頃迄作業をして帰ったと供述し、同月二五日付および二六日付各検調書においてもほぼ同趣旨の供述をし、公判に入ってからは、原審第一二回ないし同第一四回公判において、八日の昼采が来たと供述したことと九日江津駅で采と会ったと供述したことはいずれも言い間違い、思い違いをしていたものであり、八日の夜一旦家へ戻って作業衣に着換え、木屑捨場へ行ったと供述したのは検察官の誘導であり、当初木屑捨場での行動や木島等のことを話さなかった理由は、当時被告人が王子建設で働いていたし、(当時〔一〇月七、八、九日ごろ〕被告人は王子建設で働いてはいない。佐田尾要の供述参照)王子建設は山パルの下請会社であるので、どういう事情かはっきりしなければ山パル関係のことを警察で話すわけにいかなかった、或いは丁度木屑捨場から死体が出て来て、山パルの人も話に関係していたから迷惑するのではないかと思っていわなかったと供述し、当審第七回公判においても被告人が王子建設に勤めていたので王子建設に迷惑がかかってはいけないと思い話さなかったと供述している。

(三) その他被告人の不審な行動に関する弁解

(イ) 野瀬丑栄の、被告人が一〇月八日の深夜ズボンやズック靴を汚して帰宅したとの供述につき、被告人は一一月一八日付員調書において、夜遅く帰宅したのは一〇月一二、三日頃都野津からの帰り途自動車に泥をはねられたことと一一月始め彦寿司の風呂場工事および一〇月二八日頃済生会病院の基礎工事のときコンクリート作業で汚れたこと以外にはないと供述し、同月二五日付員調書において、弁当を持って夜出たというのは九月二五、六日頃のことで、采が新しい蟹網を考案したというので一緒に江川へ漁に行き、そのとき風が強く舟がこわれかけたので川へ飛び降り濡れて帰ったと供述し、同月二六日付、二九日付各員調書において同趣旨の供述を繰返し、一二月一日付員調書において、一〇月二二日頃佐田尾に頼まれて長浜部落へ行ったとき道路の泥で汚したと供述し、野瀬丑栄の供述に対し極力争っていたが、その後前記のとおり、一時、一〇月八日の夜鳥取の労働者風の男と木屑捨場で夜遅く迄作業をし、家に帰って泥れた手足を洗った旨、ほぼ野瀬丑栄の供述に沿うごとき趣旨の供述をし、更に公判の段階では再び右事実を否認し、原審第一二回公判において、一〇月始め頃采と一緒に江川へ行ったとき川に入って膝から下が濡れたが、その付近は山パルの廃液で臭い匂いがするので、家に帰ったときも臭かったと思う旨供述している。

(ロ) 竹田柳一および佐田尾要に対する借金の工作

被告人は一一月一四日付員調書において、采から預金の返還を求められたとき、手持金があったのにわざと返さないで、借金の支払いに使い、手もとに金がないと嘘をいい、また采に舟代一〇、〇〇〇円、預金二三、〇〇〇円を返すとき佐田尾と竹田から借りてきたと嘘をいったので、采が問合わせに行くと困ると思い、工作したと供述し、一二月二六日付検調書においても、被告人が金を持ちながら采に金を返さないと思われてはいけないと思い、偽りの工作をしたと供述し、原審第一四回公判においては、采があまりあちこち被告人の知合先に金を借りに歩くのでしたまでのことで、采が帰ってきさえすれば問題はないと思っていたと供述し、当審第七回公判においては、一〇月六日夜采が被告人と瀬戸内へ一緒に行って若布の養殖をやろうというので、被告人がこれをことわる口実として采に返す金も人から借りているのだからこれらを払ってくれれば一緒に行っても良いと答え、采に対する言訳けにしたと供述している。

(ハ) 鍋島トヨノに采の荷物の引渡を求めた理由について

被告人は一一月一三日付員調書において、一〇月一〇日三江線のガード下のところで、被告人宛の采の葉書を、酒をよくのむ五〇才に近い郵便さんから受取ったところ、その葉書には采の名前が書いてあるだけで処が書いてないのでどこで出したかわからなかったが、内容は「お世話になりました、お願いしてある荷物を送っておいて下さい、一〇日に広島に帰ります。」という意味のことが書いてあった、葉書は洋服の上衣のポケツトのなかに入れておいた、同月一一日か一二日鍋島のところへ行って「采の荷物を送ってやろうと思うので貰いに来た」というと、鍋島は「自分ではわからないので笠原のところへ話をしてくれ」というので、笠原のところへ行った、笠原は「采から葉書が来ておれば見せてくれ」というのでポケットを探したが葉書がなくなっていた、家へ帰って探したがとうとう見当らなかった、そこで采の妻宛に「荷物を送ってあげようと思うが、家主の方から貰えないので、荷物を送れという手紙を寄こして貰いたい」という意味の手紙を出したが、返事がこないので、そのままになったと供述し、同月一四日付員調書においても、一〇月一〇日午後一時すぎ三江線ガード下で井上という四五、六才の郵便さんから采の葉書を受けとったが、鉛筆で「荷物を送って置いてくれ采」とだけ書いてあったと供述し、一二月二日付員調書においても、一〇月一〇日午後一時半頃采から葉書を受取ったことは間違いない、郵便さんの名前は忘れたが、五〇才位の酒の好きな人で、葉書の終りの方に「発動機の工具を忘れんように送ってくれ」と書いてあったと供述したが、同月一六日付員調書において、采から荷物を送ってくれという葉書が来たといったのは嘘だと供述して前の供述を覆えし、同月二五日付、二六日付各検調書においても采から葉書が来たというのは嘘で、嘘をいった理由は、葉書でも来たといわなければ管理人の方で荷物を渡してくれないと思ったからで、実は木島が一〇月八日午後四時頃被告人の家へ来たとき「広島へ帰るから采の荷物を持って帰ってやってもいい」というので、采に送り返してやろうと思ったのだと供述し、原審第一三回公判においては再び、采から葉書がきたことは間違いない、検事に葉書が来たというのは嘘だとはいってない、現物がないから嘘と思われても仕方がないといっただけであると供述し、当審第七回公判においても采から葉書が来たことは間違いないと供述している。

(ニ) 川舟用発動機発送の問合わせについて

被告人は、原審第一三回公判において、一〇月五日頃采が発動機を売るというので、被告人が損して売るより広島へ送り帰しなさいと云い、采と一緒に梱包し、広島へ送り返させた、同月一〇日采から葉書が来たのでひょっとすると浜田に行っているかも知れないと思い、一一日浜田へ行ったが雨のため思うように探せず、浜田からの帰り、発動機をどこへ送ったか確めるため日通へ行って問合わせたところ、広島へ送ったということであった、そのとき被告人が運賃を払っておこうと思って日通の従業員に問い合わせたところ、着払いになっているというので、そのまま帰ったと供述し、当審第七回公判において発動機の発送を確めに行ったのは采の行方を知るためだったと供述している。

(四) 証拠物について

(イ) ガンヅメ

被告人は一二月六日付員調書において、一〇月九日午後七時頃から鳥取の人と木屑捨場で作業をしたが、そのときは鳥取の人が準備したガンヅメとスコップを使い、作業後これを現場に置いて帰り、翌一〇日朝も前夜の道具を使って作業をしたと供述し、同月七日付員調書において、一一月一日頃山パル管財事務所の取りこわしの際、木屑捨場にあった所有者不明のガンヅメを持ってきてこれを使い、その後木屑捨場へ返しておいたと供述し、同月一一日付員調書において、前に一〇月九日と供述したのは八日の誤りと訂正した上、八日夜使用したガンヅメとスコップは現場の藪のなかに放りこんでおき、九日の朝も前夜のガンヅメとスコップを使った、そのガンヅメの柄は曲ってなく、使い易いものであったと供述し、同月一五日付員調書において、一〇月八日の朝はハグチという平鍬を采の自転車に積んで木屑捨場へ行き作業をしたと供述し、同月一七日付検調書において、一〇月八日の夜は木島の連れの若い男が用意したガンヅメを使って作業をしたが、九日の朝は家のガンヅメを采の自転車に積んで木屑捨場へ行き作業をしたと供述し、同月二一日付員調書において、一〇月八日の朝は家から持って行ったハグチを使い、同日夜は鳥取の若い男が出したスコップとガンヅメを使ったが、ガンヅメは柄が左に曲っていた、九日の朝は家のガンヅメを持って行き、作業後持って帰った、一〇日朝も家のガンヅメを持って行き現場に置き忘れてきた、その後一、二日して取りに行ったところ女の人が「和木のおっさんが持って行った。」と教えてくれた、二、三日してまた取りに行くと木屑捨場の入口に置いてあったので持って帰ったと供述し、同月二六日付検調書において、一〇月九日朝持って行ったのはハグチの誤りで、ハグチが余りに軽く、役に立たないので一〇日の朝は家のガンヅメを持って行き、現場に置き忘れてきた、被告人はガンヅメを二本持っており、現場へ持って行ったのは瀬口の焼印のある柄の左に曲ったもので、他の一本は王子建設の済生会病院前工事現場へ同月二九日頃持って行って使用し置いてきたままになっている、木屑捨場に置いてきたガンヅメは数日後取りに行ったところ、女の人が「和木の人が取違えて持って帰った。」と教えてくれ、一〇月末頃再び取りに行ったとき女の人から返して貰ったと供述し、なお警察で押収したガンヅメを示したところ、そのガンヅメは王子建設の現場に置いてきたものであると供述し、原審第一二回ないし第一四回公判においては(その趣旨が曖昧で捕捉し難いところがあるが)木屑捨場へ持って行ったガンヅメは法廷に顕出されたガンヅメではない、警察で柄が曲っているといったのは三ツ鍬のことであって、田中オキはガンヅメの柄が曲っていたというが、間違えて持ち帰ったという男の人は柄が曲っていたとはいってない等と供述し、当審第五回公判においても、瀬口の焼印のあるガンヅメは木屑捨場へは持って行かない、一〇月八日の朝木屑捨場へ持って行ったのはこれと似た別のガンヅメであって、現場へ置いて帰ったところ、九日の朝なくなっており、田中オキに聞くと和木の人が持ち帰ったという、同月二六、七日頃木屑捨場から取ってきて王子建設の現場で使用したが、そのガンヅメの柄は真直で、警察がどこかに置いてある筈だと供述している。

(ロ) ビニール被覆電線外皮

被告人の一二月一七日付検調書において、坂本房子が家に持ち込んで物干綱の代りに使用し、その後蟹漁のとき采の自転車の荷台に取りつけたビニール被覆電線の外皮は、一一月一日頃王子建設の仕事のために旧管財事務所跡へ持って行き、そこの箱のなかへ置き忘れてきたと供述し、その後も同趣旨の供述を繰返し、なお原審および当審公判において、家にあった被覆電線外皮は本件の押収物より太さが一まわり小さく、本件の押収物件は見覚えがないと供述している。

(ハ) 紙紐

被告人は原審および当審公判において、押収の紙紐は原審の法廷で始めて見たもので、被告人の家にこのような紙紐はなかったと思うと供述している。

五、結論

以上検討した各証拠を総合して被告人および弁護人等の各所論につき判断するに、当裁判所は結論として、原判示の日時場所において被告人が采信一を殺害し、遺棄したとの原判決の認定は正当であり、これを肯認すべきであるが、凶器として押収のガンヅメを用いたとの点については証拠不十分であって、原判決はこの点につき事実誤認の違法を免れないものと考えるので、以下その理由を述べることとする。

(一) 犯行の日時に関する誤認を主張する所論について(前記被告人の主張(イ))

先づ佐田尾要の、一〇月八日午前中采が被告人の家を訪ねてきたとの供述について検討するに、右事実は被告人も捜査当時これを自白したことがあるのみならず、塩田とわ子、花田節子、花田岩男の各供述によって裏付けされており、十分信用できるものというべきである。当時被告人の家に居合わせた吉村義正は采の来訪に気付かなかったというが(同人の検察官に対する供述調書二通)、同人は采を知らないのみならず同人が被告人方に来た時は吉村は采と背を向けていたので直接同人を見ておらずしかも采は被告人の家の入口の土間に入っただけで、直ぐ帰り、吉村と言葉をかわしていないのであるから、吉村が気付かなかったのも必ずしも不自然とはいえない。また野瀬丑栄は午前中吉川氷店で働き、正午過ぎ帰宅したときは吉村も既に帰ったあとで佐田尾のみ残っていたというし(前記三の(三))、○○○○、○○の兄妹も午前中は映画見物に出かけ、一旦帰ってきて(そのとき○○はビールを買いに行った)、昼食をとってから直ぐ遊びに出かけたというのであるから(原審の証人○○○○、同○○○○に対する各尋問調書)、同人等が采の来訪に気付かなかったこともあり得ることで、右の者等の供述によって直ちに佐田尾の供述の信用性を覆えすことはできない。

次に花田節子、花田岩男の各供述の信用性についてみるに、被告人は、一〇月八日岩男は漁に出ていて不在だったというが、岩男の供述によれば、同人は八日の午前四時か五時頃漁に出たが、午前一一時頃には帰宅し、その後漁には出ていないというから(原審の証人花田岩男に対する尋問調書)、被告人の右所論は理由がなく、また津村藤子の、同日花田の家に人が居ないように思われた旨の供述(原審の証人津村藤子に対する尋問調書)をもって直ちに右花田夫婦の供述の信用性を失わせる理由とするに足りない。却って被告人は捜査当時、同日午後四時頃木島が訪ねてきて、その誘いで木屑捨場へ赴いた旨供述しているところ、右木島と称する者が架空の人物と判断せざるを得ないこと後記のとおりであり、更に同日午後五時頃木屑捨場で被告人が采と思われる義足の男と二人でいるところを目撃した旨の野村静枝の供述(前記三の(二))とあわせ考えれば、被告人がいう木島とは采のことであり、花田夫婦が同日午後四時頃被告人と采が口論しているのを聞いたとの前記供述は十分信用できるものと考える。

次に一〇月八日午前中采の姿を数回見かけたという塩田とわ子の供述について検討するに、同人の供述は時間および場所の点に関してはそれ程正確であることを期し得ないと考えられるが、同人が薪運びをした八日の午前中に被告人の家および浜吉の家の各付近で二、三回采と出会い、声をかけられたこと自体はこれを否定すべき理由がなく、前記佐田尾、花田夫婦の各供述の裏付けとするに足りるということができる。

次に野瀬丑栄の供述の信用性についてみると、同人は被告人が夜仕事に出かけ、ズボンやズック靴等を汚して帰ってきた日時につき、検察官に対しては一〇月八日の夜と供述し、原審公判廷では同月七日の夜と供述しているが、これが八日の夜と解すべきこと前記三の(三)記載のとおりであり、同人の検察官に対する供述調書によれば同女は被告人とはこの侭別れたいと言いつつもなお若し真に被告人が采を殺害したのであれば出来るだけ寛大にしてもらい度いと真情を吐露している点等より見れば同人が殊更被告人に悪意を抱いて右の極めて重要な点につき虚偽の供述をなしたものとは到底考えられないのであってその供述の信用性を疑うべき理由は毫もない。却って被告人がズボン、ズック靴を汚して帰ってきたことの理由として種々供述弁解するところはいずれも極めて不自然であり、野瀬丑栄の、木屑捨場の木屑の悪臭と同じ匂いであったとの供述とそぐわないし、また九月末か一〇月始め頃采が新しい蟹網を考案し、その試験のため一緒に江川へ出かけ、川にとび降りてズボンを濡らしたとの点は、当時采が蟹漁をあきらめ、荷物をまとめて広島へ帰る準備をしていた事実と矛盾し、被告人の弁解は到底信用できないものといわざるを得ない。

また被告人が一〇月一〇日采から葉書を受け取ったとの点については、被告人は捜査当時右事実が虚偽であることを自白しているのみならず、武田スミノ、笠原勇に対してその葉書を見せた事実がなく、吉川豊二郎も被告人が采から来たらしい葉書を手に持って見せたというだけで、その内容を読んだわけではなく、寧ろ右吉川の供述を仔細に検討すれば、采の発信した手紙であるか否かを確認していないことが明らかであり、更に警察において当時被告人方付近の配達に当った郵便配達夫に対する捜査の結果(司法警察員作成の一一月一五日付捜査報告書)に照らし、被告人が当時采から葉書を受け取ったとの供述も虚偽のものと断ぜざるを得ない。

従って犯行日時の誤認をいう論旨はすべて理由がない。

(二) 証拠物中ビニール被覆電線の外皮と紙紐の同一性に関する所論について(前記被告人の主張(ロ)および弁護人等の主張の各一部、なお押収のガンヅメに関しては後述する。)

押収のビニール被覆電線外皮および紙紐に関しては、前記三の(六)の(ロ)および(ハ)に記載のとおり、その頃被告人の家で物干綱の代り、薪炭のくくり紐又は自転車の荷台に取付け使用した数名の者が形状、材質(特にビニール被覆電線外皮については縦に裂いた切り目)からみて同一物と思われる旨供述し、しかも両者とも采の死体にまきつけられてあった事実を加えて考えれば、両者の同一である蓋然性は極めて高く、証拠上その同一性が認められたとするに充分である。被告人は右ビニール被覆電線外皮につき、一一月始め頃山パル旧管財事務所跡の王子建設作業現場に置き忘れてきたというが、警察官が一二月一八日被告人を立会させ、その指示のもとに山パル工場内の元紡績工場炊事場を捜索した結果これを発見できなかった事情(司法警察員作成の同日付実況見分調書)からみて、被告人の右弁解はたやすく信用し難い。また弁護人等は、坂本和男の、山パル木屑捨場に他にも同じようなビニール被覆電線外皮が落ちていた旨の供述を理由に、その同一性を否定しようとするが、右供述をもっては未だ前記認定を覆えす理由とするに足りない。

(三) 犯行場所に関する誤認を主張する所論について(前記被告人の主張(ハ))

被告人が一〇月七日以後山パル木屑捨場に屡々赴き、七日および八日の午後五時過ぎ頃には采と認められる男と二人でいるところを目撃され、九日以後は中央の穴の左右にある穴の周囲に繩を張り、木屑を捨てにきた自動車の運転手に専ら中央の穴に木屑を捨てるよう指示していたことおよび八日の夜内妻丑栄に夜業に行くと云って出かけ、九日の午前一時過ぎ頃ズボン、ズック靴に木屑捨場の木屑と同じ悪臭をしみこませて帰宅したこと、以上の事実は前記三の(二)および(三)の各証拠により認め得るところであり、これに対し被告人は采の死体が発見される迄木屑捨場へ行ったことを殊更隠し、死体発見後木屑捨場へ行ったことを認めたが、それ迄隠していたことの理由について供述するところは人をして首肯せしめるに足りる合理性に欠ける。また被告人が木屑捨場へ行った理由として供述するごとき木島等数人の男の行動に関しては、被告人の供述自体こまかい点で屡々変動し、曖昧な点が多いだけでなく、一〇月七日の昼過ぎ木屑捨場における多数の目撃者は被告人が一人でいたと供述しており(前記三の(二))、被告人の、その時刻頃木島等数名の者が山パル関係者と共に打合わせしていた旨の供述と矛盾しており、更に当時山パルにおいては木屑を焼いて粉炭を製造する計画がなかったこと(長井洋の司法警察員に対する供述調書)、江津署で木島等の存在を捜査したが該当者を発見しなかったこと(司法警察員作成の一二月二三日付、同月二九日付各捜査報告書、鳥取刑務所長の回答書)並びに野瀬丑栄が当時被告人より木島等のことについて何も聞いていないと供述していること(原審の証人野瀬丑栄に対する尋問調書)をあわせ考えれば、右木島等は架空の人物と断ぜざるを得ない。そして以上の事実と采信一の死体が木屑捨場の中央の穴より発掘された状況とを総合すれば、原判決が、采は右木屑捨場で殺害されたと認定したことは合理的というべきである。

これに対し、采の死体が発掘された付近の砂およびその付近に落ちていた采の眼鏡から血痕の証明がなかったことは所論のとおりであるが、前記三の(五)の各証拠、特に当審証人神田瑞穂の、顔面に挫裂創を生じても、血管が小さいので返り血を浴びる程の出血はなく、じわじわ出血する程度である旨の供述に照らし必ずしも不自然なことと云い得ず、また一〇月七日および八日の夕方被告人が采と木屑捨場にいるところを目撃されている事実からみて、采が義足で外出を嫌っていたとの所論も前記認定を妨げるものではなく、その他采の死体の付近に竹籠が落ちていたこと、采の死体が藁ごもに包まれていたことなどによって、同人が他の場所で殺され、木屑捨場へ運ばれてきたとの所論も、単なる臆測の域を出ないものであって、到底採用できない。

従って、犯行現場の誤認を主張する論旨も理由がない。

(四) その他被告人の犯行と認め得ない理由とする所論について(前記被告人の主張(二))

被告人が小柄な男であり、采信一がもと警察官をしていた大柄な男(鑑定人岡田吉郎作成の一二月二五日付鑑定書によれば、采の身長は約一七〇糎である)であることは所論のとおりだが、当審第三回公判調書中証人岡田吉郎の供述記載によれば、ガンヅメ様の鈍器の柄の方を持ち、振りおろすという打撃方法を用いれば、それ程力を要しないで、采の死体にあるような顔面の骨折を生じ得ることが認められ、かつ被告人が従来から人夫又は人夫の世話役をしてガンヅメ様の道具の使用に慣れていることを思えば、被告人が小柄で采より非力な男であっても、采の油断を見定めて打撃を加え、殺害することは十分可能というべく、右事実をもって原判決の認定を覆えす理由とするに足りない。

次に犯行の動機について考察するに、采が九月末から一〇月始めにかけて被告人に三五、〇〇〇円を騙し取られたとして非常に立腹し、広島へ帰るためその返還を強く請求し、警察に告訴することを辞さない態度を示していたことは前記三の(一)に掲げた各証拠によって明らかであり、これに対し被告人が一〇月七日の朝采に金を返して解決したとの弁解については、被告人が捜査当時竹田柳一、佐田尾要から金を借りて返した旨明らかな虚偽の供述をし、その虚偽であることが判明した後も返還した金員の額およびその出所についての供述が再三変転し、竹田、佐田尾に借金を仮装した理由についても不自然で合理性のない弁解に終始していること、更に野瀬丑栄および被告人の各供述(野瀬丑栄の検察官に対する一二月六日付供述調書、被告人の司法警察員に対する一一月一三日付供述調書)によって認められる当時の被告人の家庭の生活状況等を総合判断し、被告人の右弁解は到底信用することが出来ず、結局被告人は采の請求に対し預り金の返還が出来なかったものと認めざるを得ず、しかも采が被告人の不実に立腹し警察沙汰にも及ぶべき見幕であったことを内妻丑栄より被告人が既に知らされていたこと等を合わせ考えればこの事実は被告人の本件犯行の動機を如実に物語るものであり、被告人の内妻が約二ヶ月程采の食事の世話をしたとの事実をもって直ちに右判断を覆えし、被告人に采を殺害する動機がなかったと速断することはできない。

次に采信一の境遇、経歴および江津市へ来た目的に関しては、同人の妻ヒデヨについては勿論、弟の宇根幸次、可部町で采の近隣に居住する森岡唯、塚修或いは江津市での知合い等につき捜査審理を遂げており、被告人が渡辺三次、笠原勇についていうところは単なる臆測に過ぎず、本件の全証拠を精査しても同人等が被告人のいうような隠れた真相を知っていると窺える資料を見出すことができない。従って原審に所論のごとき審理不尽の点があるとは認められない。

なお、被告人が木屑捨場で作業をした理由として供述する木島等についてはその存在が認められず、架空の人物と判断せざるを得ないことは前記のとおりであるから、木島等の粉炭製造計画に参加したとの理由で、被告人が木屑捨場で作業をしたことと采殺害の犯行とは結びつかないとの所論はその前提を欠くものといわざるを得ない。

されば、被告人の以上の各論旨も理由がなく採用できない。

(五) 最後に押収のガンヅメに血痕附着の証明がなく、凶器と認め得ないとの所論について(前記被告人の主張(ロ)および弁護人等の主張の各一部)

鑑定人岡田吉郎作成の一二月二七日付鑑定書および当審第三回公判調書中証人岡田吉郎の供述記載によれば、采信一の頭部および顔面に存する骨折は、右ガンヅメの頭部背側で振りおろすか、頭部前面又は木質部尻で突くという動作により可能であることが認められ、原審証人田中オキに対する尋問調書によれば、同人は一〇月末か一一月始め頃木屑捨場で被告人から「ガンヅメを知らんか」と尋ねられ、他人が置き忘れたものと思い付近に隠しておいたガンヅメを取り出して見せると、被告人が「これだこれだ」といって持ち帰ったが、右ガンヅメは柄の曲った使いにくいもので、本件押収のガンヅメと同じ物と思う旨供述していることが認められ、また被告人は捜査当時、一〇月八日前後頃木屑捨場でガンヅメを用いて作業したことを認め、特に検察官に対する一二月二六日付供述調書においては、家から瀬口の焼印のある柄の左に曲ったガンヅメを持って行って作業をしたことを認めている。以上の事実から判断すれば、被告人が本件のガンヅメを用いて采を殺害したとの疑いはかなり濃厚というべきである。

しかしながら、右ガンヅメについて数回にわたり血痕附着の有無が検査されたところ、その結果は前記三の(六)に摘記したとおりであるところ、ルミノール試験等のいわゆる予備試験はいずれも説厳度の極めて高いものであるが、必ずしも人血痕のみに特有の反応を呈するものではなく、他の物質に対しても同様の反応を示すことがあること(当審証人三上芳雄に対する尋問調書二通)、フィブリン平板法による検査は高度の信頼性を有するにせよ、羽場、三上両鑑定人が右ガンヅメのほぼ全面にわたって同法による綿密な検査をした結果、陽性の反応を呈したのは金属部分と木柄との接合部分一ヶ所に過ぎず、しかも極く微量のため血痕附着の時期および血液型は全然明らかにし得ないこと(原審証人羽場喬一に対する尋問調書)、鈍器をもって顔面を殴打しても皮膚に裂創がなければ外部に出血することはないが、采の死体に存するような陥没骨折を生じたときは寧ろ皮膚に裂創を伴う蓋然性の方が強く、従って相当の出血があり、凶器の相当部分に血痕が附着したと推認されること(当審証人三上芳雄に対する尋問調書二通、同神田瑞穂に対する尋問調書)を考えれば、前記三の(六)に記載した鑑定の結果から直ちに本件ガンヅメに采の血痕が附着していたとの証明があったと断ずることはできず、更に木屑捨場には当時本件のガンヅメに類似する熊手様の道具が数個存在していたこと(司法警察員作成の一二月七日付捜索差押調書)、被告人が本件ガンヅメを采殺害の凶器に供したとすれば、その後田中オキよりこれを取戻す迄、人目につくところに二〇日余りも放置しておいたことは本件全記録を通じて看取し得るかなり頭脳明せきでいわゆる用意周到な人と見られる被告人としてはやや不自然の感を免れないこと等右ガンヅメを本件犯行の凶器と認めるにはなおいくつかの難点が存するのであって、本件ガンヅメを凶器と認めるには前叙の如くかなり肯定してもよいのではないかと思われる節の存するに拘らずなお結局証拠不十分といわざるを得ないのである。しかるに原判決がこれらの事由を透視することなくたやすく本件ガンヅメを犯行の凶器と認定したことは採証の法則を誤り、事実を誤認したものというべきである。

(六) 以上のとおり原判決は被告人が本件ガンヅメを用いて采を殺害したと認定したのは凶器の点において事実誤認のそしりを免れないが、しかし、右ガンヅメおよびこれに血痕が附着しているか否かに関する各証拠を除外し、その余の本件各証拠をもって認定し得る前叙の各事実、既ち采の死体の発掘状況と解剖所見、被告人が采より三五、〇〇〇円の返還請求を受けながら返還できず苦慮していた事情、采が被告人の右金員の不払いを知人に訴え立腹困却していた事実、一〇月八日前後における被告人の木屑捨場での行動、同月八日の夜作業に出かけ翌九日午前一時過ぎ頃木屑捨場の木屑と同じ悪臭を強くしみこませて帰宅した事実、同月九日以後采の川舟を売却し、荷物の引渡しを要求し、発動機発送の問合わせをし、或いは借金の仮装工作をした事実、采の死体にまきつけられていたビニール被覆電線外皮および紙紐の存在並びに被告人が殺人容疑で取調べを受けながら明らかな虚偽の事実をもって弁解し、かつ虚偽の供述をしたことについて合理的な説明をなし得ない事実等を総合判断すれば、被告人が原判示の日時場所において原判示のごとき動機のもとに、鍬、ガンヅメ又はこれに類似する鈍器を用いて采を殴打殺害し、その死体を同所に遺棄したとの事実は、到底これを否定し得ないところであり、従って、原判決の認定中凶器の点を除くその余の事実は、正当としてこれを肯認すべきものである。

(七) 以上の次第で、原判決は凶器の認定において事実誤認の違法があり、右違法は本件殺人、死体遺棄の公訴事実につき被告人を有罪と認定したことに対しては判決に影響を及ぼすものではないが、右事実誤認にもとづき刑法第一九条を適用して本件ガンヅメを没収した点においては判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、被告人および弁護人等の各所論はその限度において理由があり、原判決は右の点において破棄を免れないものである。

よって刑事訴訟法第三九七条第一項第三八二条に則り原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書を適用し、当裁判所において更に判決する。(なお、弁護人野尻繁一の量刑不当の控訴趣意に対しては、自判の際あらためて考慮判断することとし、ここでは省略する。)

(罪となるべき事実)(証拠の標目)(再犯となる前科)

以上については、原判決三枚目表二行目および三行目の「所携のガンヅメ(鉄製熊手)、(昭和三八年押第二号の証二八)」とあるのを「鍬、ガンヅメ又はこれに類似する鈍器」と訂正し、同五枚目表五行目の「一、第八回公判調書中証人羽場喬一の供述記載」、同六行目の「一、第九回公判調書中証人吉良清司の供述記載」、同一一行目の「一、吉良清司作成の鑑定書」、同一二行目の「一、羽場喬一作成の嘱託鑑定書二通」、同六枚目裏一〇行目の「ガンヅメ一丁(同号の証二八)」とあるのをいずれも削除するほか、すべて原判決の(罪となるべき事実)(証拠の標目)および(再犯となる前科)の項に記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。

(法令の適用)

法律に照らすと、被告人の所為中殺人の点は刑法第一九九条に、死体遺棄の点は同法第一九〇条に、詐欺未遂の点は各同法第二五〇条第二四六条第一項にそれぞれ該当するところ、殺人罪につき犯行の動機殊にその態様が甚だ悪質残忍であって情状の酌むべき点がなく、その他再犯となる前科等諸般の情状に鑑みれば原審が無期懲役刑を選択したこともやむを得ないものであり、野尻弁護人の量刑不当の控訴趣意を参酌して検討してもこれが不当に重いとは到底思料されないから、当審においても無期懲役刑を選択すべきものとし、その余の罪につき同法第五六条第一項第五七条により再犯の加重をし、以上は同法第四五条前段の併合罪であるが、殺人罪につき無期懲役に処すべき場合であるから同法第四六条第二項に従い他の刑を科さず、被告人を無期懲役に処し、同法第二一条により原審における未決勾留日数中六〇〇日を右本刑に算入し原審および当審における訴訟費用は刑事訴訟法第一八一条第一項但書を適用して被告人に負担させないこととする。

よって主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 牛尾守三 裁判官 後藤文彦 右田堯雄)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例